* * *
雲桜が滅んだ日のことはよく覚えている。 十年前。里桜がまだ、九重と呼ばれていた頃のはなしだ。早花月の下旬。その年は比較的暖かかったから、ふだんならまだ蕾の八重咲きの白い枝垂れ桜が盛りを過ぎ、すでに散りはじめていたのだ。そんな白い花びらが舞い散るなかで見た、幽鬼が襲ってくる前日の夕陽が、忌わしいほどに美しかったのだ。たぶん、それが予兆だったのだろう。雲桜が滅亡するという、予兆。
九重の父親は雲桜の集落にある神殿の大神官だった。常に清廉な空気と白い浄衣をまとい、土地神である花王の神、通称「花神さま」に仕えていた。九重もまた、自分が生まれたときに花神から『雲』の加護を与えられ、神官の娘として父親の手伝いをすることもあった。
花神さまには茜桜という名があったが、そのときの九重は彼と直に会話をすることはおろか、逢うことすら叶わなかったため、彼の名を知ることはなかった。彼の名を呼べたのは、『雲』の民のなかでも花神に愛された、限られた人間だけだったから。
その、限られた人間のなかに、父親だけでなく、九重よりふたつ年上の、朱華という名の少女がいた。
彼女の父親も九重と同じ、花神に仕える神官だった。そして、彼女の母親はカイムの姫巫女と呼ばれた天神の娘だった。朱華は、生まれたときから茜桜の名を識(し)っていたのだ。 九重が逆さ斎を頼って椎斎の地へ逃げ込み、名を里桜と改め、試練に打ち勝ち闇鬼を身体に封じ、土地神と対等の逆さ斎となったことで、彼女はようやく今は亡き故郷を守護していた土地神の真名を識ることができたというのに。しかも朱華は九重よりも年配のくせに、自分が持つ『雲』のちからを制御できていなかった。
しょっちゅうちからを使いすぎて父親に叱られ座敷牢で罰を受けていたのを、九重は何度も見ている。無邪気で愛らしい、けれど後先何も考えていない愚かな娘だった。きっと茜桜の結界に綻びを生じさせるほどの術を発動したときも、自分が罰せられてそれでおわりだと思ったのだろう。
けれどそうはいかなかった。 彼女のせいで雲桜は滅びの道を辿った。 神「颯月(そうげつ)」 代理神である里桜はふたつ名を呼ぶ権利も持っている。だから朱華のことをあえて朱華(あけはな)と呼び、竜糸の代理神として彼女と面会した。そして桜月夜のなかにも神々と対等の人間として認められたふたつ名を持つ人間がいる。桜月夜の守人と呼ばれる彼らもまた、ふたつ名を所持していた。「お呼びでしょうか?」 その桜月夜の一人、呟いただけで自分の傍に風のようにやってくる少年は、ふたつ名で縛った主のただならぬ状況に驚きを隠すことなく、その場に跪いた。「カシケキクの大神殿をあたってほしいの」 裏緋寒が神殿へ連れてこられたことでふだんは清冽な空気が漂う神殿内に緊張が走っている。瘴気に侵され闇鬼を顕現させた巫女のような例がふたたび出てこないとも限らない。そこで里桜は思い出す。自分の半神であるもうひとりの存在を。「きっと、大樹さまは至高神によって身動きをとることができないだけなのよ」 なんせ自分が逆さ斎、すなわち神皇帝が持つ『地』の加護に近い人間であるのと逆に、大樹は対をなす『天』の加護を持つカシケキクである。彼らが所属するカイムの中央に位置する大神殿だけが、至高神と直接的なやりとりを許されているのだ。「あぁ、どうしていままで気づかなかったのかしら! 大樹さまがいなくてもあなたがいるのなら『天』に接触できるじゃない」 至高神はとても厄介な神である。 かの国の神のなかで唯一の不老不死を謳う、美しき母なる天の神。気まぐれに異界に通じる穴をつくって人間と幽鬼を争わせたり、自分の息子である土地神たちに集落の統治を任せて人間の男とのあいだに子どもを作ったり、滅びを招いた娘を土地神の花嫁に据えようとしたりと枚挙に暇がない。 ……たぶん、あの天神は今回も眠りっぱなしの息子を起こすために人間たちを翻弄させ、どこかで高みの見物をしているはずだ。「里桜さま?」 「だって、大樹さまが消えて結界が薄れてからもうすぐ丸三日が経とうとするのに、瘴気の量は増えることも減ることもしていないわ。裏緋寒を連れてきたからかもし
至高神がすべてを仕組んだ張本人であるのなら……里桜は思考をめぐらせる。 まずは大樹を返してもらい、完全な代理神となって、竜糸の結界を締め直すのだ。 そうすれば、裏緋寒である朱華のことで煩わされることもないし、たとえやむを得ず竜頭を起こしてしまったとしてもふたたび眠らせることができる。そもそも大樹がいれば竜頭のもとに花嫁を送る必要もなくなる。だが。「……至高神がカイムの地にいる可能性は低いと思いますよ?」 そう、あっさりと釘を刺した颯月の言うとおり、至高神がそこにいる可能性は低い。 至高神を探し出すまでの時間を考えると、竜神を起こすのが正解なのだろう。 けれど、里桜はムキになって言い返す。「そ、それでも、大陸随一の大神殿なら……」 「あたるだけあたりますが、いいかげん竜神さまに起きてもらった方がいいような……」 颯月は意地になっている里桜を見て、困ったように言葉を濁らせる。「と、とにかく頼むわ!」 里桜は颯月を追いだし、はぁと息をつく。 もし、ほんとうにすべてが至高神に仕組まれているのなら。天の姫神は代理神を廃して、本来の竜神にすべての統治を頼むのだろうか。傍に、花嫁となる朱華を置いて……「そんなこと……」 花神に愛され、それを裏切った後も逆さ斎の裏緋寒の番人に愛され、あげく桜月夜に傅かれ竜頭の花嫁にと選ばれた少女、朱華。 ――なぜ彼女なの。「恨めしいのですか?」 フッ、と里桜の脳裡に少しかすれた声が入り込む。「恨めしいんだね」 まただ。影のある、けれど聞き覚えのある声が。「恨めしいんだな」 しずかに、追い詰めるように自分を責めていく。 そのうち、鈴を転がしたような声が割り込み、甘い誘惑を振りまいていく。「――素直に認めればいいのに」 なにかがおかしい。 この場所に、なにかがいる。 里桜はあたまを抑えて呻き声を漏らす。「だ、誰があ
逆さ斎は土地そのものに仕える斎。神からの加護を受けずとも果敢に生きるが、地母信仰に基づいた独自の象徴を抱いている。 それが、神皇帝の紋章にも使われている印璽に描かれる、月。 逆井一族に認められた男児は月の影という称号のもと、神皇帝とともに神々の守護する国の補佐をするのだ。 けれど未晩はその月の影になることの叶わなかった、逆井一族に認められなかったなりそこないだ。 だから至高神が情けをかけて裏緋寒の番人に召したのかもしれない。 そこまで考えて、彼は自分と同じ銀髪に緑の瞳を持つ逆さ斎でありながら、まったく別の、自分とは反対の位置にいる人間だということを改めて悟る。 それは、彼とはけして相容れることないだろうという諦めにも似ている。 里桜は未晩の言葉を撥ね退けるように鋭く言葉を発す。「月の影のなりそこないの言葉など無用よ。闇鬼の呪力をつかって竜糸に悲劇を起こしてまで自分の望みを叶えようとは思っていないの」 「残念です。神に逆らう斎たる貴女が、代理の神という座に甘んじているなんて」 「何をっ……」 悲しそうな未晩は里桜の腕を掴み、手の甲へ口づける。「貴女が竜神の花嫁になれるよう、祝福してあげましょう」 にこやかに微笑む未晩の翡翠色の瞳は、笑っていなかった。「そんな外法で竜頭さまが惑わされるわけがない!」 口づけられた手の甲を衣でごしごし拭いながら、里桜は抵抗する。それでも手の甲の周りはむず痒さがつづいている。目を凝らせば、蟻に似た羽虫が皮膚を喰らうように集い、里桜の手に印を刻みつけている。これは幻覚。呪詛なんかじゃない。自分と同じ術者なのだから、撥ね返せばいいだけのこと。 「――土地に仕えし逆さ斎が命ずる、我が身を襲いし悪しき幻よ、失せよ!」 古語を使わない詠唱は逆さ斎特有のもの。土地神ではなく土地そのもののちからを分けてもらうことで術を発動させる逆さ斎は、地面の上にいる限りどこででもちからを具現することが可能になる。 里桜は竜糸の代理神だが、それ以前に椎斎の、逆井を名
未晩の姿が一瞬でかき消える。存在自体が幻だったかのように。 緊張の糸が切れたかのようにがくりと膝が床に落ちる。 けれど里桜はこれが現実であることを痛感する。右手の甲に施された逆斎のちからを無力化する呪詛。これは逆さ斎が使うことはまずない、忌術。 「……瘴気が、なかった」 闇鬼に堕ちた人間なら、瘴気を身体中から迸らせているものだ。けれど、未晩からはまったく瘴気が感じられなかった。考えられる可能性はふたつ。ひとつは未晩自身がいまなお闇鬼を飼いならした状態でいるということ、そしてもうひとつ。 「……彼自身が幽鬼になった?」 幽鬼は自ら瘴気の存在を操ることができる。もしかしたら未晩も瘴気を操れる幽鬼となったのではなかろうか。この竜糸に侵入している幽鬼と接触したことで。 裏緋寒の番人として対面した桜月夜は彼が闇鬼を飼っていることから瘴気を払うことで難を逃れたが、裏緋寒を連れて行かれた未晩は、闇鬼を操るだけでは神殿に歯が立たないことに気づいたのだろう、それゆえ、幽鬼と接触を試み、自らの裡に飼いならしていた闇鬼と自我を同化させることにしたのだ。 朱華を神殿から取り戻す、それだけのために彼は幽鬼と契約し、その身を幽鬼へ変化させたのだ。なんということ。 未晩が消えてからも膝をついたままの状態で途方に暮れていた里桜の前に、清涼な空気が雪崩れ込んでくる。ハッとして顔をあげると、不機嫌そうな夜澄が突っ立っていた。「なんだこの気配は」 「……逆さ斎が現れたわ」 それだけ口にして黙り込んでしまった里桜を見て、夜澄はふん、と鼻を鳴らす。だが、視線を里桜の右手に移したことで、その表情は瓦解する。「お前、その手……!」 「やられたわ。彼、ただの逆さ斎じゃない。幽鬼と手を組んだことで更に禍々しくなっている」 夜澄が里桜の右手の甲へそっと手を乗せると、黒い羽虫は霧散するものの、もぞもぞと抵抗するように暴れながら再び蹂躙をはじめる。どうやら神術で消し去っても、施されたもともとの術が解けない限り、次から次
白い桜の花びらが風に舞い、視界を遮断する。 沈みゆく西陽のあかいひかりがその光景に加わり、周囲は真紅に燃え上がる。 桜の甘い芳香にむせながら、幼い少女は傷ついたちいさな蛇を掌のうえにそっと乗せて言葉を紡ぐ。「Eyaitemka hum pak pak――恢復せよ、小さき雷土(いかづち)の神の御子(こ)よ」 ――蛇は竜神さまの御遣いだから、殺してはいけないの。 亡き母が子守唄のように口にしてくれた神謡(ユーカラ)が、脳裡で甦る。 とっさに声にだした呪文が正しかったか、少女に自信はない。 けれど、目の前でいまにも息絶えそうなちいさな白い蛇を見た瞬間、はやく助けないと間に合わないと判断したから、少女は土地神が与えてくれた加護のちからを発動していた。 それは、白い山桜に囲まれた集落、雲桜(くもざくら)に暮らす『雲』の部族だけが持つ古(いにしえ)民族が残した神謡の断片。 集落では滅多やたらと使ってはいけないと戒められているけれど、いまは危急を要する時だからと少女は思いなおし、ぴくりともしない蛇にちからを注ぎつづける。 おとなに見つかったらたかだか蛇にそのようなちからを使うものではないと叱られ、座敷牢で数日罰せられる。そうはわかっていても少女はやめられなかった。 ――おねがい、起きて! この、ちいさな蛇の命をたすけたい。 もう、自分の前で死んでいく姿を、見たくない。 病に倒れた母を治癒術で救えなかったあの時みたいに悲しい思いをしたくない。 それが単なる自己満足でしかないことはわかっているけれど…… 山裾を西陽が照らしあげていく。 真っ白な桜の花は血のようにあかくくれないに染まっていく。空に浮かぶ雲とともに。 そして、ふたたびの桜吹雪が少女を襲う。 これ以上、呪文を唱えてはいけないとでもいいたそうに、花神の強烈な風が、吹き荒れる。 それでも少女は言葉を紡ぐ。必死になって祈りを捧ぐ。 ひとつに束ねていた長い髪は風に巻き上げられ、身にまとっている白藤色の袿の裾もひらひらと揺らめく蝶のように空を泳ぐ。いつ身体が吹き飛んでもおかしくない状態が、拷問のようにつづく。 禍々しいほどに鮮やかな、深緋色の時間が過ぎていく。すでに太陽は地平線の彼方へと姿を消し、入れ替わるように夜の世界を支配する黄金色の月が、喉を枯らした少女
* * * 「……死にそこなったか。忌わしい蛇だ」 桜吹雪の向こうで、一匹の蝙蝠が嘲るように鳴き声を発している。 その報告を耳に、男はつまらなそうに応える。「蛇がいるからには眠れる竜を無理に起こすこともない。標的を竜糸(たついと)から雲桜に変える」 思わぬ発見だった。 たいしてちからを持たない花神を土地神としている少数部族『雲』が暮らす山深くに位置する雲桜は男にとって捨て置くはずの場所だったからだ。まさかここで至高神の加護を持つ『天』に勝るちからを目の当たりにするとは。これは、放っておけない。「いまはこの、邪魔をした小娘がいる厄介な呪術を使う集落を落とすのが先だ」 雲桜の土地神を殺めれば、その地は瘴気に満ち、またたく間に深い闇へ人間を飲み込んでいくだろう。その絶望に打ちひしがれた人間どもを食餌できるのだ、余興にもちょうど良い。「そのあいだに、計画を練り直せばいい。まだ時間はあるのだから……な」 きぃきぃと、賛同するように蝙蝠が鳴く。気づけば少女に介抱された蛇は、姿を転じることなく澄み切った夜空に逃げるように消えていた。「正体を悟られるのを避けたか。まあよい。あの蛇を殺すのはあとの楽しみとしておこう」 だが、愚かな少女だ。土地神の制止もきかずに術を遂げるとは。これで花神も疲弊して、こちらの侵入に気づくのに遅れるだろう。 男は苦笑しながら蝙蝠に命じる。「いましかない。雲桜を、滅ぼせ」 * * * 息を吹き返し天空に姿を消した蛇を呆然と見送った少女は、暁降ちに起こる嵐の予兆など知る由もなかった。 そして、朝陽を拝む間もなく、故郷は滅ぶ。 雲桜を守護していた土地神、花神が幽鬼によって殺されてしまったから。 * * * 土地神が施した魔除けの結界は解け、悪鬼が美しい桜の園を蹂躙する。 桜の淡い芳香は喰い破られた人間の血肉の臭いに染め変えられ、白い桜もどす黒い瘴気に染まる。 繰り広げられる悪夢に、疑心暗鬼になった『雲』の民は罵りの言葉を吐く。「誰が禁術を使ったのだ……!」 雲桜を守護する花神の加護をもつ『雲』の民は、集落の誰かが禁忌とされる術を使ったために花神のちからが弱体化し、そこを鬼に付け込まれたのだと悟る。 だが、その原因をつくったのが齢九つの少女であることにはまだ誰も気づいていない。
少女は最後まで気づかなかった。 蛇は掌の上に乗せられる以前から、 すでに息絶えていたことに。 * * * 「――ここで、じっとしているんだよ。この悪夢が、終わるまで」 誰もが土地神の守護から引き裂かれ、逃げまどうことしかできずにいる。 そのなかで、少女だけが蚊帳の外へ放り出されていた。 術師である父親が施した、命がけの結界だった。「ヤダ、お父さんも一緒に……!」 「それはできないよ。いいかい。花神さまの遺志を継いで、生き延びるんだ。生きて、逆斎を頼りなさい」 「さか、さい?」「そうだ。|紅雲《べにぐも》であるお前には神術の才がある。雲桜が失われても、お前の身に宿る『雲』のちからは変わらない。それに『天』に連なる逆斎の人間なら、神でなくても鬼に勝てる」 父親が少女へ言葉を贈るあいだも、雲桜に暮らしていた人間は、次から次へと鬼によって葬り去られていく。ぬちゃりともぺたりとも言い知れぬ気味の悪い足音が、父親の背後に迫っている。 けれど、少女はそれを眺めることしかできない。 どす黒いおおきな爪が、父親に向かって振りかざされる。 悲鳴を押し殺して、首からどくどくと血を流しながら父親は叫ぶ。「お前は、土地に仕える逆さ斎に……!」 最期の言葉が溶けて消える。 少女はもはや声をあげることもできずにいた。双眸から滴り落ちる涙をぬぐうこともせず、悪夢の終焉をひたすら、待つ。 見知った雲桜の民がひとり、またひとりと鬼に喰われていく。元凶がどこにあるか真相に辿りつくを与えることなく、首を捥がれ、五臓六腑を引きずり出され、手足を噛み切られ、残虐に殺されていく。おびただしいまでの血が津波を起こし、神聖なる土地を穢していく。目を背けたいほどの光景。けれど少女は瞳を閉じない。忘れてはいけない。目に焼きつけて、離れないようにしなくては…… ――鬼を、倒せる人間に。逆さ斎に、なる。 いまは非力な自分だけど、いつか、雲桜のみんなの仇を討つために。 そう、強い決意を胸に秘めたまま、瞳に涙を溜めたまま、気が狂いそうになりながら見つめていたけれど。 少女の目の前に、燃え上がる炎に照らされ赤く染まった髪の少年が現れて、にっこりと微笑まれたところで、ぷつりと意識が途切れた。 「しばらくお休み。この胸糞悪い夢が醒めたら、キミに逢いにいく
――幽鬼(ゆうき)。 それは神と人間がともに暮らすこの北の大地、カイムに出現する人間に似た異形のものたち。 鬼と呼ばれることの多い彼らは暗闇を愛し神を選んだ人間に仇なす忌わしき存在である。 ときには人間の心の闇に巣食う闇鬼(あんき)を潜ませ、扇動し、争いと混沌に満ちた箱庭を作り、破壊することもある。 土地神に護られた人間を自分たちの玩具にし、大陸の神々を屈服させるべく、鬼たちは人間の寿命よりもはるかに長い、気が遠くなるほどの年月をかけて、いまもどこかで策謀を張り巡らせ、暗躍しつづけている。 奴らの魔手から逃れるため、古代の先住民であるカイムの民は、集落ごとに神との契約をさせ、土地神の加護という名の結界を施した。だが、あれから千年ちかくが経ち、神々の結界もまた、あちこちで綻びが生じているのが現状である。「……あれから十年ですか」 幽鬼による雲桜の滅亡は、カイムに暮らす他の部族たちにも衝撃を与えた。 古代の伝承でしか知らされていなかった幽鬼は実在し、いまもなお人間たちに害をなそうとしていたのだ。 どの集落も次は自分のところに来てもおかしくないと感じたのだろう、この数年で術師による結界はずいぶんと強化されたように感じる。 だが、土地神がひとと混じって暮らしている集落はまだいい。ここ、竜糸の地は、守護してくれるはずの竜神が、湖の底で眠りこんでいるのだ。それは、もう、何百年と……! 絹の浄衣をまとった神職の蒼い髪の青年は、水晶の縫いこまれた濃紫色の袿を纏った少女の前で、はぁと息をつく。土地神が眠りこけているせいで、とばっちりを受けている神殿の人間からすれば、神不在の状態で闇鬼だけでなく元凶とされる幽鬼の襲来をも警戒しなければならないのだ。下手をすれば雲桜の二の前になってしまう。 だが、青年の前に座る少女の表情はやわらかかった。 いちばん辛い立場にあるというのに、どこか楽しそうにも見えてしまう。「幽鬼がとらえる時間の感覚は人間のそれとはまったく違うわ。その点だけは神に近いとも言えるんじゃなくて?」「そうですね。ですが、おひとりで竜神さまの代理をつとめるのは、やはり無理があります」 「星河(せいが)。それでも、いま、代理神としてこの地を守ることができるのは、逆さ斎としてのちからを宿したあたくししかいないのよ」 「ですが、里桜(さ
未晩の姿が一瞬でかき消える。存在自体が幻だったかのように。 緊張の糸が切れたかのようにがくりと膝が床に落ちる。 けれど里桜はこれが現実であることを痛感する。右手の甲に施された逆斎のちからを無力化する呪詛。これは逆さ斎が使うことはまずない、忌術。 「……瘴気が、なかった」 闇鬼に堕ちた人間なら、瘴気を身体中から迸らせているものだ。けれど、未晩からはまったく瘴気が感じられなかった。考えられる可能性はふたつ。ひとつは未晩自身がいまなお闇鬼を飼いならした状態でいるということ、そしてもうひとつ。 「……彼自身が幽鬼になった?」 幽鬼は自ら瘴気の存在を操ることができる。もしかしたら未晩も瘴気を操れる幽鬼となったのではなかろうか。この竜糸に侵入している幽鬼と接触したことで。 裏緋寒の番人として対面した桜月夜は彼が闇鬼を飼っていることから瘴気を払うことで難を逃れたが、裏緋寒を連れて行かれた未晩は、闇鬼を操るだけでは神殿に歯が立たないことに気づいたのだろう、それゆえ、幽鬼と接触を試み、自らの裡に飼いならしていた闇鬼と自我を同化させることにしたのだ。 朱華を神殿から取り戻す、それだけのために彼は幽鬼と契約し、その身を幽鬼へ変化させたのだ。なんということ。 未晩が消えてからも膝をついたままの状態で途方に暮れていた里桜の前に、清涼な空気が雪崩れ込んでくる。ハッとして顔をあげると、不機嫌そうな夜澄が突っ立っていた。「なんだこの気配は」 「……逆さ斎が現れたわ」 それだけ口にして黙り込んでしまった里桜を見て、夜澄はふん、と鼻を鳴らす。だが、視線を里桜の右手に移したことで、その表情は瓦解する。「お前、その手……!」 「やられたわ。彼、ただの逆さ斎じゃない。幽鬼と手を組んだことで更に禍々しくなっている」 夜澄が里桜の右手の甲へそっと手を乗せると、黒い羽虫は霧散するものの、もぞもぞと抵抗するように暴れながら再び蹂躙をはじめる。どうやら神術で消し去っても、施されたもともとの術が解けない限り、次から次
逆さ斎は土地そのものに仕える斎。神からの加護を受けずとも果敢に生きるが、地母信仰に基づいた独自の象徴を抱いている。 それが、神皇帝の紋章にも使われている印璽に描かれる、月。 逆井一族に認められた男児は月の影という称号のもと、神皇帝とともに神々の守護する国の補佐をするのだ。 けれど未晩はその月の影になることの叶わなかった、逆井一族に認められなかったなりそこないだ。 だから至高神が情けをかけて裏緋寒の番人に召したのかもしれない。 そこまで考えて、彼は自分と同じ銀髪に緑の瞳を持つ逆さ斎でありながら、まったく別の、自分とは反対の位置にいる人間だということを改めて悟る。 それは、彼とはけして相容れることないだろうという諦めにも似ている。 里桜は未晩の言葉を撥ね退けるように鋭く言葉を発す。「月の影のなりそこないの言葉など無用よ。闇鬼の呪力をつかって竜糸に悲劇を起こしてまで自分の望みを叶えようとは思っていないの」 「残念です。神に逆らう斎たる貴女が、代理の神という座に甘んじているなんて」 「何をっ……」 悲しそうな未晩は里桜の腕を掴み、手の甲へ口づける。「貴女が竜神の花嫁になれるよう、祝福してあげましょう」 にこやかに微笑む未晩の翡翠色の瞳は、笑っていなかった。「そんな外法で竜頭さまが惑わされるわけがない!」 口づけられた手の甲を衣でごしごし拭いながら、里桜は抵抗する。それでも手の甲の周りはむず痒さがつづいている。目を凝らせば、蟻に似た羽虫が皮膚を喰らうように集い、里桜の手に印を刻みつけている。これは幻覚。呪詛なんかじゃない。自分と同じ術者なのだから、撥ね返せばいいだけのこと。 「――土地に仕えし逆さ斎が命ずる、我が身を襲いし悪しき幻よ、失せよ!」 古語を使わない詠唱は逆さ斎特有のもの。土地神ではなく土地そのもののちからを分けてもらうことで術を発動させる逆さ斎は、地面の上にいる限りどこででもちからを具現することが可能になる。 里桜は竜糸の代理神だが、それ以前に椎斎の、逆井を名
至高神がすべてを仕組んだ張本人であるのなら……里桜は思考をめぐらせる。 まずは大樹を返してもらい、完全な代理神となって、竜糸の結界を締め直すのだ。 そうすれば、裏緋寒である朱華のことで煩わされることもないし、たとえやむを得ず竜頭を起こしてしまったとしてもふたたび眠らせることができる。そもそも大樹がいれば竜頭のもとに花嫁を送る必要もなくなる。だが。「……至高神がカイムの地にいる可能性は低いと思いますよ?」 そう、あっさりと釘を刺した颯月の言うとおり、至高神がそこにいる可能性は低い。 至高神を探し出すまでの時間を考えると、竜神を起こすのが正解なのだろう。 けれど、里桜はムキになって言い返す。「そ、それでも、大陸随一の大神殿なら……」 「あたるだけあたりますが、いいかげん竜神さまに起きてもらった方がいいような……」 颯月は意地になっている里桜を見て、困ったように言葉を濁らせる。「と、とにかく頼むわ!」 里桜は颯月を追いだし、はぁと息をつく。 もし、ほんとうにすべてが至高神に仕組まれているのなら。天の姫神は代理神を廃して、本来の竜神にすべての統治を頼むのだろうか。傍に、花嫁となる朱華を置いて……「そんなこと……」 花神に愛され、それを裏切った後も逆さ斎の裏緋寒の番人に愛され、あげく桜月夜に傅かれ竜頭の花嫁にと選ばれた少女、朱華。 ――なぜ彼女なの。「恨めしいのですか?」 フッ、と里桜の脳裡に少しかすれた声が入り込む。「恨めしいんだね」 まただ。影のある、けれど聞き覚えのある声が。「恨めしいんだな」 しずかに、追い詰めるように自分を責めていく。 そのうち、鈴を転がしたような声が割り込み、甘い誘惑を振りまいていく。「――素直に認めればいいのに」 なにかがおかしい。 この場所に、なにかがいる。 里桜はあたまを抑えて呻き声を漏らす。「だ、誰があ
「颯月(そうげつ)」 代理神である里桜はふたつ名を呼ぶ権利も持っている。だから朱華のことをあえて朱華(あけはな)と呼び、竜糸の代理神として彼女と面会した。そして桜月夜のなかにも神々と対等の人間として認められたふたつ名を持つ人間がいる。桜月夜の守人と呼ばれる彼らもまた、ふたつ名を所持していた。「お呼びでしょうか?」 その桜月夜の一人、呟いただけで自分の傍に風のようにやってくる少年は、ふたつ名で縛った主のただならぬ状況に驚きを隠すことなく、その場に跪いた。「カシケキクの大神殿をあたってほしいの」 裏緋寒が神殿へ連れてこられたことでふだんは清冽な空気が漂う神殿内に緊張が走っている。瘴気に侵され闇鬼を顕現させた巫女のような例がふたたび出てこないとも限らない。そこで里桜は思い出す。自分の半神であるもうひとりの存在を。「きっと、大樹さまは至高神によって身動きをとることができないだけなのよ」 なんせ自分が逆さ斎、すなわち神皇帝が持つ『地』の加護に近い人間であるのと逆に、大樹は対をなす『天』の加護を持つカシケキクである。彼らが所属するカイムの中央に位置する大神殿だけが、至高神と直接的なやりとりを許されているのだ。「あぁ、どうしていままで気づかなかったのかしら! 大樹さまがいなくてもあなたがいるのなら『天』に接触できるじゃない」 至高神はとても厄介な神である。 かの国の神のなかで唯一の不老不死を謳う、美しき母なる天の神。気まぐれに異界に通じる穴をつくって人間と幽鬼を争わせたり、自分の息子である土地神たちに集落の統治を任せて人間の男とのあいだに子どもを作ったり、滅びを招いた娘を土地神の花嫁に据えようとしたりと枚挙に暇がない。 ……たぶん、あの天神は今回も眠りっぱなしの息子を起こすために人間たちを翻弄させ、どこかで高みの見物をしているはずだ。「里桜さま?」 「だって、大樹さまが消えて結界が薄れてからもうすぐ丸三日が経とうとするのに、瘴気の量は増えることも減ることもしていないわ。裏緋寒を連れてきたからかもし
* * * 雲桜が滅んだ日のことはよく覚えている。 十年前。里桜がまだ、九重と呼ばれていた頃のはなしだ。 早花月の下旬。その年は比較的暖かかったから、ふだんならまだ蕾の八重咲きの白い枝垂れ桜が盛りを過ぎ、すでに散りはじめていたのだ。そんな白い花びらが舞い散るなかで見た、幽鬼が襲ってくる前日の夕陽が、忌わしいほどに美しかったのだ。たぶん、それが予兆だったのだろう。雲桜が滅亡するという、予兆。 九重の父親は雲桜の集落にある神殿の大神官だった。常に清廉な空気と白い浄衣をまとい、土地神である花王の神、通称「花神さま」に仕えていた。九重もまた、自分が生まれたときに花神から『雲』の加護を与えられ、神官の娘として父親の手伝いをすることもあった。 花神さまには茜桜という名があったが、そのときの九重は彼と直に会話をすることはおろか、逢うことすら叶わなかったため、彼の名を知ることはなかった。彼の名を呼べたのは、『雲』の民のなかでも花神に愛された、限られた人間だけだったから。 その、限られた人間のなかに、父親だけでなく、九重よりふたつ年上の、朱華という名の少女がいた。 彼女の父親も九重と同じ、花神に仕える神官だった。そして、彼女の母親はカイムの姫巫女と呼ばれた天神の娘だった。朱華は、生まれたときから茜桜の名を識(し)っていたのだ。 九重が逆さ斎を頼って椎斎の地へ逃げ込み、名を里桜と改め、試練に打ち勝ち闇鬼を身体に封じ、土地神と対等の逆さ斎となったことで、彼女はようやく今は亡き故郷を守護していた土地神の真名を識ることができたというのに。 しかも朱華は九重よりも年配のくせに、自分が持つ『雲』のちからを制御できていなかった。 しょっちゅうちからを使いすぎて父親に叱られ座敷牢で罰を受けていたのを、九重は何度も見ている。無邪気で愛らしい、けれど後先何も考えていない愚かな娘だった。 きっと茜桜の結界に綻びを生じさせるほどの術を発動したときも、自分が罰せられてそれでおわりだと思ったのだろう。 けれどそうはいかなかった。 彼女のせいで雲桜は滅びの道を辿った。 神
土の上に押し倒され、朱華がちいさな悲鳴をあげる。さきほどの身体検査のつづきだとでも言いたそうに、夜澄の瞳が獰猛に煌く。黒から琥珀色に変化する双眸に射抜かれて、身動きがとれない朱華を嘲るように、夜澄は朱華の着衣を乱し、小ぶりな乳房を空気に晒す。「……あ」 「もう勃っているぞ……はやく竜神に愛されたくてたまらないとでもいいたそうな身体だな」 「そんな……っ!」 月明かりの下、夜澄に胸を露出させられた朱華は彼から逃げ出そうと身体をくねらせるが、留めていた帯がほどけ、肩から腰まで上半身を剝かれてしまう。仄かに白い肌は夜闇のなかでも発光しているかのように目立っていた。「きゃん」「抵抗するならこうだ。おとなしく感じろ」「あぁっ!」 腕を持ち上げられ、先ほどの勢いでほどけた帯で両手首を拘束された朱華は夜澄の前で胸の膨らみを強調され、甘い声をあげる。「縛られるのが気持ちいいか? いまにも達しそうな表情をしてる……」「ひぁ、そんなわけ」 夜澄の指先で左右の乳首を交互に弄られ、朱華が下肢をくねらせる。たとえいまが夜で暗いからとはいえ、神殿の外で行われる卑猥な状況は羞恥心を刺激する。胸元を愛撫され抵抗できなくなった朱華は頬を赤らめつつ、夜澄にされるがまま、身体を疼かせる。 やがて夜澄は手だけでなく己の顔を朱華の胸元へ持って来て口唇と舌での愛撫を開始した。れろれろと乳首を舌先で転がされ、今までに感じたことのない快楽を前に朱華は首を横に振る。「あぁ……それだめっ」 「さすがに胸からは蜜を出さないか……それにしても甘い香りだ。たまらない」 乳首を咥えたまま喋る夜澄に戸惑いながら、朱華は甘い声で啼く。未晩が施したおまじないよりも艶めいた彼の行為に、まだ触れられてもいない下肢が湿ってきていることに気づき、愕然とする。 秘処から分泌された桜蜜の甘い香りが漂ってきているのだろう、夜澄が満足そうに乳首を舐めしゃぶった後、下衣の間へ己の指を差込み、くいっ、と秘芽をつつきだす。どぷっ、と
「ねえ夜澄」 「なんだ?」 「くっつきすぎじゃない?」 星河が立ち去ったのを見送った夜澄は、朱華の首根っこを掴んでいた手を下ろし、自分の腕のなかへ彼女を招き入れた。真っ黒な外套を着た彼は猩々緋の刺繍が刻まれた月白の袿を着た朱華をすっぽりと覆い尽くすように、両腕で彼女を閉じ込めている。 まるでこの腕から逃がさないとでも言いたそうな、彼のかたくなな態度に、朱華は何も言えずにいる。「いやか?」 「……ううん。よく、師匠もそうやって、あたしを温めてくれたから」 「ふうん」 朱華の口から師匠、未晩のことがでてくると、夜澄は急に不機嫌な顔で突き放すように口を開く。「あの男のこと、何も知らなかったくせに」 「夜澄だって、知らないであたしのところに来たくせに」 両頬を膨らまして反論する朱華に、夜澄は勝ち誇ったように言い返す。「お前のことを俺が知っているぶんには、問題ないだろう?」 「あたし?」 「桜月夜の総代は天神が定めた裏緋寒を一目見ただけで判別する能力がある。それに」 意地悪そうな笑みを見せながら、夜澄は朱華の両頬に手をのばし、輪郭を確かめるようにゆっくりと指の腹を使って辿っていく。くすぐったいよと抵抗を見せる朱華を無視して、夜澄はつづける。「お前は姿を隠していた俺たちの気配にすぐ気づいた。ちからを半分以上封じられているにしては、優れた術者に育ったと思うぜ」 「……まるで昔のあたしを知っているみたいな言い方ね」 「それはどうかな」 朱華が挑発するように夜澄を見上げても、彼は素知らぬ顔で朱華の頬を撫でつづけている。「質問を変えるわ。あなたは、あたしがここにいる理由を知っている?」 「星河と同じ質問か。そりゃ、お前が天神に目をつけられた裏緋寒だから、だろ?」 「それはあたしでもわかることじゃない。そうじゃなくて、夜澄が知っていることを知りたいの」 「塗り替えられた記憶を取り戻したいのか」 そのひとことで、ぴん、と夜の空
――いや、そんなことできるわけない。いくら、里桜さまがお望みになっているからといって…… 葛藤を隠したまま、星河は足音を立てることなく朱華の隣から後ずさる。湖に視線を向けたままの朱華は星河が動いたことにも気づいていない。 自分の前で無防備に背中を見せる朱華を見て、震えが走る。 いまの竜糸は雪が降ってもおかしくない気温だが、湖のなかは地上よりも温かいのか、凍りついた気配はない。夜の帳が下りたいま、この少女を竜頭が眠る湖底へ突き落したら、どうなるだろう? 土地神は目覚めるのか……?「――莫迦なことはやめろ」 振り上げた腕を、思いっきり叩き落される。 星河はすぐそばまでやって来ていた同朋の姿に気づき、乾いた声でその名を呼ぶ。「夜澄」 ぼんやりと湖を見つめたままの朱華も、彼に気づいたのか顔をあげ、憤怒の表情に彩られた夜澄を見て、驚いている。「どうしたの?」 「……どうしたもこうしたも」 漆黒の髪と瞳を持つ、星河よりもはるか昔から竜神に仕えている桜月夜の総代。彼は星河の腕をきつく掴みながら、朱華に叫ぶ。「お前は緊張感がなさすぎる! 神殿内ではお前が裏緋寒であることを厭う人間もイヤってほどいるんだぞ! もうすこし自覚しろ!」 ぽかん、と口をあけている朱華を睨みつけながら、夜澄は星河にも吠える。「星河も星河だ! いくら里桜が彼女を非難したからっていきなり湖に突き落とそうとしただろ? あのときといまは違う! ……いま、そんなことをしても無駄だ」 夜澄が怒りをあらわにしている横で、星河は気まずそうに朱華の表情をうかがう。朱華は夜澄が言っていることの意味がわかっていないのか、いまも不思議そうに夜澄の表情を観察している。 夜澄は呆れたように朱華の背中へ手をまわすと、しっしと星河を追い払う仕草をする。「もういい。あとは俺が代わる。お前は戻れ」 「すまない」「謝るのは俺にじゃない。お前が先の裏緋寒と混同した彼女に謝れ」 「……そうだな」 星河は夜澄
「……カイムの地で加護があるのは五つの『雪』の集落と六つの『雨』。それ以外は『風』をひとつのぞいてすべて幽鬼によって滅ぼされてしまいました」 「そういえば、颯月は『風』なのよね」 自己紹介されたとき、彼はレラ・ノイミと言っていた。たしか、カイムの古語で風祭を意味していたはずだ。「ええ。瘴気を払うことのできる『風』は、古くから幽鬼たちに警戒されているんです。とはいえ、払うだけで幽鬼を葬り去ることができないため風祭をのぞいてすべて滅んでしまいましたが……」 「そういえば、土地神さまに後継がいないとその集落は滅ぶ、ってはなしもあったような……それも裏緋寒に繋がるの?」 「そのとおり。よくわかりましたね」 偉い偉いとあたまを撫でられ、朱華はなんだかくすぐったい気持ちになる。 星河は朱華を妹や娘のようにみているきらいがある。夜澄や颯月と違って、ひとり別の視点から裏緋寒の乙女である自分を見守っている、そんな感じ…… けれど朱華はそんな風にされることに慣れていない。父代わり、兄代わりだった未晩は、もっと朱華を自分の所有物のように扱っていたから。 星河はそこに立っているだけの柳の木のようだ。糸のように垂れ下がる葉をゆらゆら靡かせながら、焦点の定まらない朱華の心を見透かし、朱華の言おうとしていることを汲みとって、必要になったら支えてくれる。そんな、強い意志を隠した柳の木。 朱華は深呼吸をして、挑むように星河を見上げる。「星河。あたしがここにいる理由を、あなたは知っている?」 「すべては知りませんけれど、だいたいのことでしたら、さきほどの里桜さまとの会話で推測可能です」 「あたしは記憶がごちゃごちゃになっているみたい。師匠の甘い言葉だけを信じていればよかったのかな。そうすれば、九重が苦しむようなことは起こらなかったのに」 九重。 朱華は里桜のことを無意識のうちに呼んでいる。星河はあえて訂正を入れず、黙って彼女の言葉を待つ。「茜桜がね。あたしにちからを解放する、って夢に現れたの